こんにちは、リコです。
みなさんは、「互譲」という言葉をご存知でしょうか。
読んで字の如く、互いに譲り合うことをいいます。
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互譲の精神
裁判手続においては、判決によって裁判所が結論を決める以外に、和解によって当事者双方が納得した結論で事件を終わらせるということがよくあります。
民法695条によると、
和解は、当事者が互いに譲歩をしてその間に存する争いをやめることを約することによって、その効力を生ずる。
と規定されていますので、和解は互譲を前提としているということになります。
これって、裁判上の和解に限らず、全ての話合いに当てはまることですよね。
利益が対立する者同士が話合いで決着をつける場合、お互いに譲り合って落とし所を見つけていく形になりますので、どちらか一方でも絶対に一歩も譲らないということだと話合いになりません。
・・・なんか当たり前のこと言ってますよね?
互譲の精神が忘れ去られるとき
そんなわけで、みなさん、通常誰かと交渉したり話合いをしたりするときは、程度の差こそあれど、必ずどこか譲り合って、少しずつ結論に近づくという過程を辿っています。
特に意識しなくても、互譲の精神に則って話合いがなされているのです。
なのですが、夫婦関係の紛争になると、様相が変わってくる人がいます。
自分の要求ばかりを相手にぶつけて、相手の要求は一切拒否。
こういうことを結構平気でやってしまうのです。
あれやってこれやって、次はこれね。
何言ってるの?なんであなたの言うこと聞かなきゃならないの?
そうすると、当然相手からは、
こっちの要求を一切呑んでくれないのに、そっちの要求だけ呑むことはできない!
と言われてしまって、そこで話合いがストップしてしまいます。
話し合えなくても裁判所が決めてくれるなら、それでいいや。
というのであれば、別に構わないのですが、こういう人に限って、話合いでの決着を希望します。
話合いがいいというのに、その大前提である譲り合いは拒否。
・・・じゃあ一体どうしろというのでしょう。。。
こういう人には、
お互いに譲り合う必要があるんですよ。
とか伝えてみるのですが、ほぼほぼ伝わりません。
自分は一歩も譲歩していないのに、相手が自分の要求を呑まないことを純粋に不思議に思っていたりします。
なんで私の要求が通らないの?
被害者意識 > 互譲の精神
客観的に見ると、
自分は1ミリも譲らないのに、相手が自分の要求を受け入れて当然と思っているなんて、どんだけ図々しいんだ・・・
とか思ってしまうのですが、そこには未婚の私には分からない夫婦生活の積み重ねがあるのかな、と。
おそらくこういう態度に出てしまう人たちは、これまでの夫婦生活の中で、
- 散々迷惑をかけられてきた
- 散々我慢を強いられてきた
- 散々言うことを聞いてきた
という思いが強く、話し合う段階ですでに、
私はこれまで散々譲ってきた!だから私は一切譲る必要がない!
という感覚なのではないかと思うのです。
そう考えると、
これだけ自己中な言動もある意味致し方ないのかな・・・
と思わなくもないんですが、そのような言動によって結局自分の望む結論を遠ざけていたりするので、悩ましいところです。
このような人は、譲ったとしても自分に不利益はない部分についても譲りたがらないので、そこさえ譲れば希望が叶うという場合でも、自らその芽を摘んでしまったりします・・・
夫婦間の紛争の渦中にいるときは、なかなか自分のことを客観視することはできません。
なので、自分の要求が客観的に見ると自己中かもしれないと認識することは、かなりハードルが高いと思います。
ですが、今現在、夫婦間の話合いが膠着状態に陥っているとしたら、「互譲」という観点から状況を見直してみるのはいかがでしょうか。
あなたが小さく譲ることで、意外と簡単に状況が好転するかもしれません。